LOGINひと月という刻は、指の間からこぼれ落ちる砂のように、あまりにも早く過ぎ去った。
朝夕を縛っていた厳寒の気配は緩み、板戸の隙間を侵す光の色も、凍てついた白銀から淡い鈍色へと移ろいでいく。 だが季節が巡ろうとも、この
昼になれば、役人や僧が入れ替わり立ち替わり緋宮を訪ね、風向きや雲行き、遠き地の川の増水について問うた。
運び込まれた木簡の束からは、乾いた木のアクと、人の手垢、そして下界の泥の臭いが立ち昇り、狭い座敷の清浄な空気を犯していた。 それは、都人の欲望と焦燥が凝縮された臭気だった。緋宮はその汚泥のような情報の山を、表情一つ変えずに飲み下し、ただ龍としての理だけを吐き出していく。その横顔は、神像のように美しく、そして痛々しいほどに無機質だった。
緋宮は短く答えるだけだが、そのたびにどこかで豪族同士のある日は、国子が木簡を束ねて持って来た。
「西の山里で、雪代の水が溢れかけております」淡々と告げられた地名や川の名に、瑞礼は覚えのあるものを探そうとして、すぐに諦める。ただ、緋宮がその束を一瞥し、
「二日のうちに風向きを変える。堤を高くし過ぎるな。水は一度、土地に吸わせた方がよい」 とだけ言えば、それで話は終わるのだった。数日後、同じ木簡が、今度は別の報せを抱いて戻って来た。手渡されるとき、木簡同士がかすかに触れ合い、こつりと乾いた音を立てた。
瑞礼には、その小さな響きの中に、遠い里の土の匂いまでも封じ込められているように思えた。
「増水は引きました。田も、すべては流されずに済んだようです」
国子がそう言って頭を下げる。瑞礼は、目には見えないどこかで人々の暮らしと緋宮の吐息とが、細い糸で結ばれていることをぼんやりと知る。瑞礼には都の理のすべては分からな
ひと月という刻は、指の間からこぼれ落ちる砂のように、あまりにも早く過ぎ去った。 朝夕を縛っていた厳寒の気配は緩み、板戸の隙間を侵す光の色も、凍てついた白銀から淡い鈍色へと移ろいでいく。 だが季節が巡ろうとも、この御所に澱む空気だけは変わらない。瑞礼の肌は、春の予感よりも先に、逃げ場のない閉塞を感じ取っていた。 御所の朝はいつも同じように始まる。鐘の音で目を覚まし、瑞礼は水を汲み 昼になれば、役人や僧が入れ替わり立ち替わり緋宮を訪ね、風向きや雲行き、遠き地の川の増水について問うた。 運び込まれた木簡の束からは、乾いた木のアクと、人の手垢、そして下界の泥の臭いが立ち昇り、狭い座敷の清浄な空気を犯していた。 それは、都人の欲望と焦燥が凝縮された臭気だった。 緋宮はその汚泥のような情報の山を、表情一つ変えずに飲み下し、ただ龍としての理だけを吐き出していく。その横顔は、神像のように美しく、そして痛々しいほどに無機質だった。 緋宮は短く答えるだけだが、そのたびにどこかで豪族同士の諍いが収まり、濁った川の水位が引いたと国子に聞かされた。 ある日は、国子が木簡を束ねて持って来た。「西の山里で、雪代の水が溢れかけております」 淡々と告げられた地名や川の名に、瑞礼は覚えのあるものを探そうとして、すぐに諦める。ただ、緋宮がその束を一瞥し、「二日のうちに風向きを変える。堤を高くし過ぎるな。水は一度、土地に吸わせた方がよい」 とだけ言えば、それで話は終わるのだった。 数日後、同じ木簡が、今度は別の報せを抱いて戻って来た。手渡されるとき、木簡同士がかすかに触れ合い、こつりと乾いた音を立てた。 瑞礼には、その小さな響きの中に、遠い里の土の匂いまでも封じ込められているように思えた。「増水は引きました。田も、すべては流されずに済んだようです」 国子がそう言って頭を下げる。瑞礼は、目には見えないどこかで人々の暮らしと緋宮の吐息とが、細い糸で結ばれていることをぼんやりと知る。 瑞礼には都の理のすべては分からな
即位の儀の準備が進むにつれ、御所の中は慌ただしくなっていった。役人たちが帳や座具を運び、僧たちが梵唄を唱え、陰陽師たちが星と日取りを占う。 ところが儀の前夜、日が沈み切るころになると、急に風が荒れ出した。東の空が鉛色に沈み、黒い雲が幾重にも重なって、御所の上空を押し潰すように広がっていく。 雷鳴がひとつ、遠くで腹を鳴らした。続いて、砂を巻き上げるような突風が廊下を駆け抜ける。薄い障子が震え、灯したばかりの灯が、いくつも一度に消えた。 瑞礼が身を竦めると、すぐに廊下を走る足音が近づいてきた。「中臣様! これは……」「凶兆ではございませんか。星の巡りが……」 陰陽師と僧の声が入り乱れる。やがて、その騒がしさの中から、中臣国子の低い声が抜け出してきた。「慌てるな。風の主に、ひと声願えばよいこと」 そう言って、国子は対屋の方へ向き直った。瑞礼が戸口を開けると、すでに彼の目は、縁に腰を掛けている緋宮へ注がれていた。「龍神よ」 国子は膝をつき、深く頭を垂れる。「今宵の風は、即位の儀を拒むかのように荒れ狂っております。このままでは、明日、姫様を高みにお迎えできませぬ」 緋宮は、庭の方を向いたまま、しばらく何も言わなかった。銀の髪が、吹き込む風にわずかに揺れている。 瑞礼は、ただその横顔を見つめる。御影山で見た雪の夜よりも、今の緋宮の影の方が、深く見えた。「……これも人の理の揺れだ」 緋宮は、低く呟いた。「押し上げたい者と、引きずり落としたい者と。風は、そいつらの息をかき混ぜて吹いている」 そう言いながら、立ち上がる。足を一歩、庭へ踏み出した瞬間、縁の下から吹き上がっていた風が、躊躇うように一度だけ止んだ。「瑞礼」「はい」「ついて来い」 瑞礼は慌てて後を追う。国子と陰陽師たちも距離を保ちながら続いた。 庭を抜け、御所の中庭へ出ると、空はすでに黒い渦で
いくつかの日が過ぎた。 緋宮と瑞礼には、御所の一隅――池に面した小さな対屋が与えられていた。 庭の池には葦も菱もなく、整えられた石と白砂ばかりが広がっている。龍ノ淵の湖とは似ても似つかぬ、人の手垢にまみれた景観だった。 都の空気は妙に柔らかい。吐く息も白くならず、夜でも風が肌を刺さない。だが、その柔らかさの底に、腐った水のような重さが潜んでいる気がした。 遠くでは、絶え間なく鐘と太鼓が鳴り、屋根と屋根のあいだから、いつも人の声が溢れている。それは絶えることのない、欲望のさざめきのように聞こえた。 朝になれば、瑞礼は御影山でしていたのと同じように水を汲み、火を起こそうとする。けれど、ここにあるのは石を積んだかまどではなく、黒く塗られた鋳物の釜と、飾り立てられた杓子だった。 手を伸ばすたびに、木と土ではなく塗りと金具の冷たさが指に触れる。 炊が配る米は、湖畔の粗い粟とは違い、白く磨き上げられた粒だった。焚き上がった湯気には、雪の匂いではなく、どこか甘い脂の匂いが混じっている。 その甘さが、瑞礼の舌には毒のように感じられた。 夜具もまた、落ち着かないものだった。 御影山の洞では、草の上に毛皮を敷いて眠ったが、ここでは厚く重ねた茵の上に横たわる。身を沈めると、床板の手触りが遠くなり、空中に吊り下げられているような心細さを覚えた。 緋宮は昼の多くを、庭の縁に腰を下ろして過ごしていた。池の水面を眺め、ときおり、どこから吹き込むとも知れぬ風を指先で弄ぶ。 御影山にいたころよりも、その背に影が差して見えるのは、ここが人の理のただ中だからだろうか。 ときおり、女嬬や侍臣たちが遠巻きに縁の方を見やり、ひそやかに頭を下げて去ってゆく。その視線は、猛獣の檻を覗き込むような、好奇と畏れに満ちていた。 ある夕べ、瑞礼は水を汲んだ桶を抱えて対屋へ戻る途中、廊下の曲がり角で足を止めた。 細い声が、柱の陰から漏れてくる。「……見ました? 昨夜のこと」
庭を渡る気配が、一息に重くなった。「――わたくしは、大王になるよう望まれています」 姫は静かに言った。「けれど、あの皇子のまわりに集まる光を見ていると、ときに思うのです。人々が仰ぐべきは、わたくしの座る高みなのか、それとも、あの方の耳なのか、と」 言葉の終わりに、かすかな苦みの色が滲んでいる。「だからこそ、あなたの力を借りたい」 姫はまっすぐに言葉を放った。「御影山の主よ。あの皇子のまわりに集まるものが、彼の身を壊さぬよう――その理を、わたくしの座へとつなぎ留めてほしい」「……つまり」 緋宮は、わずかに顎を傾けた。「お前を天に据えるため、俺に手伝えということか」 庭の隅で、誰かが息を呑む気配がした。中臣国子が、慌てて言葉を継ぐ。「炊屋姫様のおっしゃることを、どうか悪くはお取りにならぬよう。皇子を傷つけることが目的ではありません。ただ、その周りに渦巻く理を、御位のもとへ導きたいだけにございます」「導くか、縛るかなど」 緋宮は鼻先で笑った。「沈められる側から見れば、大差なかろう」 瑞礼の胸が、ずきりと痛む。御影山の湖、封じられた贄たち。守るために滅ぼされ、誰かの望みのために沈められた命。緋宮は、きっとそんな光景を幾度も見てきたのだろう。その瞳の奥には、千年の屍が積み重なっている。「……それでも、です」 帳の向こうで、姫が言った。抑えきれぬ震えが、その声に滲んでいた。「わたくしは、この国を割りたくはありません。豪族たちにも、それぞれの神々にも、もうこれ以上、人を捧げてほしくはない。だから――」 いったん言葉を切り、深く息を吸う気配がした。「御影山の主に願います。わたくしが大王として立つことを、ひと月のあいだ、その風で支えてください。そうすれば、北の里々には二度と手を出さぬと誓いましょう。龍ノ淵を、国の聖なる縁として守りましょう」 瑞礼
「俺たちに、遠い道のりを歩けと言うのか?」 緋宮が国子に不満を漏らした。それは神としての不快感というより、瑞礼を気遣う苛立ちに近い。「いえ、馬の用意がございます。ただし、一頭ですが」 国子はそう言って、兵士の一人に目配せをした。連れてこられたのは、御影山の小さな駄馬とは違う、背の高い栗毛だった。鼻面から白い息を吐き、緋宮の存在に落ち着かぬ様子で蹄を鳴らしている。「……瑞礼」 緋宮がちらりとこちらを見る。「お前、これの扱いは分かるか」「はい。里では、雪の薄い季節には馬で狩りに出ることもありました」 瑞礼は答えながら、馬の首筋を撫でた。皮膚の下で筋肉がぴくりと動き、耳がこちらをうかがうように揺れる。生き物の温かさが、手のひらに懐かしく伝わった。「手綱は、わたしが取りましょう。緋宮様は、後ろにお乗りください」「俺が前ではないのか」「いえ、緋宮様は後ろで休んでいてください」 そう言うと、瑞礼は先に鐙に足を掛け、軽く身を引き上げる。 鞍の上から振り返ると、緋宮はわずかに眉をひそめたまま、袍の裾をさばいて瑞礼の背後へ跨った。 細い腕がためらうように瑞礼の腰へ回された。布越しに伝わる温みが、思っていたよりも近い。背中に触れる胸板の重みと、耳のすぐ後ろでかすかに触れる息づかい。それは御影山の風とは違う、人肌の熱を帯びている。「強くつかまっていてください」 瑞礼がそう言うと、緋宮の指先がわずかに力を増した。その圧が、瑞礼の腹のあたりで静かに脈打つ。それは不安の鼓動か、それとも信頼の証か。 中臣の兵たちが道を開き、行列が動き出した。 山をいくつも越え、川を渡り、幾夜かを野で明かしたのちのことだった。 ふと振り返れば、御影山の連なりはすでに遠く、白さも細い糸のように薄れている。代わりに、低く丸い山々と、黒く湿った田が広がっている。凍てついた川面ばかり見慣れた瑞礼には、水が音を立てて流れているというだけで、世界の骨組みが別のものになってしまったかのように思われた。 日ごとに雪は
湖の方から、かすかな水音がしていた。支度を終え、洞の入口へ向かおうとしたとき、瑞礼は足を止めた。 緋宮の姿が湖の縁にあった。銀の髪が雪をはじき、背はまっすぐ水面の方を向いている。初めて出会った夜の光景が、そのまま戻ってきたかのようだった。 ただひとつ違うのは、その肩に宿る影の重さだ。かつては氷雪のように孤高であった背中が、いまはどこか、人の世の重力を帯びて見えた。 声をかけるべきか、瑞礼は迷った。けれど足は吸い寄せられるように、緋宮の方へと進んでいた。 岩陰に身を寄せれば、緋宮の横顔がわずかに見える。金紅の瞳は水面ではなく、その少し先、霧に沈んだ淵の深奥を見つめていた。 沈黙がしばらく続いた。やがて、低い声が雪と水のあわいに滲んだ。「……人は、守るために滅ぼすのか」 その一言に、瑞礼の胸が震えた。緋宮の声の色はいつもと違っていた。嘲りでも怒りでもない。ひどく疲弊した、人の嘆きのように聞こえた。「誰かを救うために、別の誰かを沈めるのか」 湖の面に、鈴の音がかすかに反響した。捧げられた贄たちの影が水の底で揺らいでいるような気がした。封を弄り、理のために人を沈めてきた朝廷の姿と、これから自分たちが踏み入ろうとしている都の光景が、瑞礼の頭の中で重なり合った。「そんな理を、俺はもう見たくない」 最後の言葉はほとんど吐息だった。――緋宮様は、見てきたのだ。神として、数え切れないほどの「守るための滅び」と、「救うために沈められた誰か」を。 瑞礼は手のひらをぎゅっと握りしめる。呼びかけたい。あなたは何も悪くない、と。そんな理を見せてきたのは人間だ、と。 けれど、その言葉もまた誰かを赦して誰かを責めるだけの理になってしまう気がして、言葉は喉の奥で凍りついた。 緋宮の肩がかすかに動いた。 「聞こえているぞ、瑞礼」 振り向きもしないまま、低い声が言った。 瑞礼は息を呑んだ。 「……すみません。声をかけるべきか迷って……」「別に、隠れていたわけではあるまい」 ようやく、緋宮が振